何か物事を起こしたいという基本的な欲求?

 ハリー・ハーロウが学生たちを動物園に連れて行った時、類人猿やサルたちが、ただ楽しむだけに問題解決をすることに驚いた。行動主義では、そのような強化されていない行動はけっして説明できなかった。1959年にハーバード大学の心理学者ロバート・ホワイトは、行動主義と精神分析の研究を調査した後、両方の理論共にハーロウの指摘を見過ごしていると結論づけた。人や他の多くの哺乳類が、何か物事を起こしたいという基本的な欲求を持っているという圧倒的な証拠である。

 (中略)

 自分から退職したのか、クビになったのか、それとも宝くじが当たったのかにかかわらず、働くことを止めた人がしばしば無気力になってしまうことを見ることがあるだろう。心理学者はこの基本的な欲求を、能力、勤勉、達成に対する欲求として言及してきた[=効力動機]。

 

(J・ハイト(2011)(藤澤隆史・藤澤玲子訳)『しあわせ仮説』新曜社、317頁。原典の傍点は下線にて代用)

  またこの本の批評である。「またかよ」というご指摘はご勘弁されたい。というのも僕は多読派ではなく精読派だからである。

 閑話休題。引用で述べられた「何か物事を起こしたいという基本的な欲求」は「基本的」な欲求らしい。が、僕は生まれつきその欲はあまりない。小学生の時分に「将来の夢」みたいな作文(エッセイ)を書いたとき、他の人が「プロ野球選手」とか「お母さん」と書く中、僕は「大学生になりたい」と書き、教諭に「それは”将来の夢”の内に入らない」と教え諭されたことがある。僕はしぶしぶその構想をボツにし、「公務員」と書き直した、ということを憶えている。進学するうちに判るかなあと考えていたが、大学生になっても「将来の夢」がわからなかった。何もしたいことなど、無いのである。もしくは小学生のとき構想にあった大学生に既になってしまったからかもしれない。何か物事を起こしたいという基本的な欲求、を満たしたのである。引用文の後者にある効力動機はある。現にこうやって散文を書いているのは、効力動機に拠るのだろう。

 そもそも何か物事を起こしたいという基本的な欲求は反証可能性がおおいにある理論だと思う。なぜなら、「メキシコの漁師」という寓話にもあるように、今ここの生活と幸福感に満足している人間は多くいて、仕事に消極的だったり、何もしたくない人間も存在するからである(無視できない数はいるのではなかろうか)。なので「基本的」な欲求であるのかも、僕は懐疑的である。「何か物事を起こしたい」というのは「基本的」というよりか、各々の性格、衣食住に関わる死活問題(実のところ、2021年の日本で衣食住に関わる死活問題は殆ど労働せずとも克服できるのだが)、そして教育や政治思想から出てくるような社会構築的な要素、つまり表面的なことでコアなことではないのではないか?

 僕が理想(ideal, イデア)とする社会は、衣食住のために仕事をする必要がない社会である。そのためには生産能力を上げるなり、ユニバーサル・ベーシック・インカムなり様々なアイデア(idea, イデア)があるだろうが、それはひとまず別の議論なので傍に置いておこう。全く、「足るを知る」人間が報われない社会とは、なんと低俗!