ノート#1

 ある側面から見て正しいことは、別の側面からは誤っているかもしれない。ある側面からみて賢いことは、別の側面からすれば、愚かなことかもしれない。僕を含め、人々がこの相対の世界をさ迷うのも、無理もないことである。認知心理学でいわれる、立方体の図を見るとき一方の側面しか見られないみたいに、それがデフォルトなのである。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」というように、中庸であるのが良いし、人徳の尤もたることである。しかしながら、ではなぜ人は極端になってしまうのだろう? ヒュームがいうように「理性は情念の奴隷である」からだろうか(現代の心理学の知見からすれば「理性は情念の弁護士である」がより適当)。実際そうなのだろう。僕が人間を観察する限りでは、中庸の徳を備えた人というのは、その人の気質がそうであるか、或いは中庸であらんとトレーニングをした人物である。正義心とは、僕にとって、自明なことであり、謎でもある。まだまだ勉強不足だなあと思う、今日此頃…

 

 閑話休題。僕は秋冬の洋服より、春夏の洋服の方が好きである。ブロードのシャツ、薄手のステン襟コート、どれも軽々としているからである。ブロードのシャツに敢えてシワをつけて着るのが好きである。「洗いざらし」というのだろうか。

 洋服、つまり西洋の服が今日の日本では主流である。機能的だし、動き易いし、ケアも容易だ。しかし、春夏くらいは1週間ぐらい皆揃って着物を着る時期があってもいいのではないかと思う。和服の歴史を学ぶと、我々が今日、洋服を着るときでも、和服の発想できていることがあることに気づく(肌着、家と外で服を分ける習慣とか)。我々は、日常において、歴史を身に纏っている。