理性についての小試論:『人はどこまで合理的か』批評

 言語学者ノーム・チョムスキーは、人間の言語の本質は「再帰性」にあると考えた。再帰性とは文章が入れ子構造になりうることをいう。わたしたちは「犬」について話せるのはもちろん、「母の友人の配偶者の伯母の隣人の犬」について話すこともできる。「彼女はそれを知っている」と指摘するだけではなく、「彼女がそれを知っていることを、彼は知っている」「彼女がそれを知っていることを彼が知っていると、彼女は知っている」といったように際限なく広げていくことができる。このような再帰的な構造は単なる強調の手段ではない。わたしたちが句のなかに句を入れ込んで話す能力を発達させたのは、思考のなかに思考を入れ込んで考える能力をもっていたからにほかならない。

 そしてこれが理性の力である。理性は理性について推論することができるのだから。何かがめちゃくちゃに見えるときでも、わたしたちはそこに何かの秩序を探すことができる。未来の自分が非合理な行動をとるかもしれないときでも、今の自分が賢く立ち回り、先手を打つことができる。合理的な議論が誤謬や詭弁に陥ったときには、別の合理的な議論でそれを指摘し、正すことができる。そして今、あなたが同意しない――この議論に欠陥があると思う――なら、それもまた理性があなたにそうさせているのだ。

(S・ピンカー(橘明美訳)(2022)『人はどこまで合理的か(上)』草思社、122-123頁より引用)

 僕は理性については――タブラ・ラサは批判するが――ヒューム主義的な立場を取ることが多い。カーネマンの『ファスト&スロー』及びハイトのThe Righteous Mind(邦題『社会はなぜ左と右にわかれるのか』)に書かれていることも、ヒューム主義的である。人は自動的な思考のプロセスがあり、バイアスが幾多も存在し、「である」よりも「見える」に重きを置いてしまうことがある。育ちや文化だけではなく、生まれ持った神経科学的要因が人を決めてしまう。だからこそ、啓蒙が我々には必要不可欠であり、己の行いを修めることが、人によっては、必要だと、考えている。カントの哲学は、まるでペガサスのようである。存在せず、知覚できず、観察不可能なことについて語っているのだが、観念連合によって、つまり馬と白鳥が存在し、それを複合することによって、その哲学があるように思えてしまうだろう。ペガサスは美しいので、魅了されるひとも多いが、観察できない。僕は馬と白鳥の段階で、哲学を形成するのが、合理的だと考えている。それともカントは制度的なことを言ったのだろうか。まだまだ僕はカントについてよくわかっていない。

 理性とは再帰的であり、換言すれば入れ子構造をしており、マトリョーシカであり、脚注である。理性についてヒューム主義的に考えることも、また理性の為す技である。理性について再帰的に考え続けた先に、何があるだろうと考えるが、それはマトリョーシカのようなものであり、ひょっとしたら、フラクタル構造なのかもしれない。ただ、僕が理性について信じていることがあるならば、理性は人間を進歩させることが可能である、ということである。僕は無自覚に啓蒙思想家なのかもしれない。