なぜ世の人々は退屈そうじゃないのか

 退屈を感じている。仕事にしても、余暇にしてもだ。何にも悩んでいないのはある意味仕合せだが、退屈ではなく、刺激をどこかで求めているのだろう。酒、女、酒、女求め始めたら埒が開かない。生きていく上である程度の目標は刺激と生きがいを与えてくれる。目標の裏は、欲である。ある程度欲がないと、良く生き難いのかもしれない。頭では分かるのだが、私の心はなんだか保守的なようである。仕事にもいまいち探究心や好奇心がわかないし、学問にも以前と比べると弱まった。知らないことは多いが、知っていることも増えた。足るを知る者は常に足る。私は常に足るを知る才があるようである。よく世の人々は、退屈もせず、飽きもせず 、せっせとマスクをした畜群として(花粉症や風邪などの場合は除く。そもそもマスクの着脱などその人次第で、私が変えられることではない。服に何を着るかその人次第なように。ただ私は、マスクの例のような、附和雷同な、自ら招いた未成年状態の、無責任の体系の、畜群道徳がまかり通る日本社会を、杞憂する。これは他人に期待しすぎだろうか)、生きているものだと思う。私が勝手にそう思っているだけだろうか。何かが欲しい、名声を得たい、女を抱きたい、何処かへ旅したい等々、欲はあったほうが、そのために苦しむだろうが、生きがいや刺激を与えてくれるのだろうか。2022Spotifyで聴いていた曲がブラームスばかりである。なんだかそういう気分なのかなと思う。大学卒業後、したいこともなく、これからは余生だなと思っていたが、余生というには長い長い時が続きそうだ。