不安定な春

 僕は春は気持ちが不安定になりがちである。僕の意思とは関係なく、体の自動的なプロセスでそうなっているみたいだ。緊張感があったり、焦燥感があったりする。特に朝にそうなりがちだ。かといって、生活に支障をきたす程重症ではない。僕の生活といえば、変化はほぼないに等しい。一方で、周りは変化する。僕は、高校から大学の途中まで、レギュラーフィットのまっさらブルージーンズをいつも穿いていて、「レギュラーフィットのブルージーンズはダサいから、黒スキニーにした方が良い」と、飲み会で指摘されたことがある(そしてこれは当時のトレンドからすれば妥当な助言である)。しかし、今では、そのブルージーンズがトレンドである(そして、なんとレギュラーよりももっとゆるいものが着られている)。男も女も、2000年代のIce BahnやNitro Microphone Undergroundの様な恰好をしている。そのくらい服も変化し、季節も変わっていく。否、それよりも速く変化している。僕が住んでいる地域は、季節の変化が明瞭な気候であり、かつ夏から秋のように徐々に変化するのではなく、急変する。日が長くなる。それら諸々が自律神経を乱しているのかもしれない。服の変化は自律神経を乱さないが、季節の変化は乱す。僕は能動的に変化するほうであるが、受動的な変化には弱いのだろうと思う。

 こうなり始めたのは、大学生の頃からかな、と思う。小中高生の時分は、新しい教科書が配られ、それに好奇心が向き(そうじゃない人もいるだろうが、僕はそういう類の生徒だった)、人間関係も鈍感で大雑把だったし、それで上手くいったし、それでやっていけるお年頃だったのだろう。大学の仕組みと似た高校に通っていたので、授業がある程度主体的に選べ、課題もそれほど多くなかった。そして、大学になり、周りの人が増え、その連中の傲慢さに驚き(日本の大抵の高校が抑圧的だから、それから解放され、こうなっているのかも、と憐れみもしたが)、シラバスの複雑さに困惑した。それらのネガティブな経験が今でも尾を引いているのか? 少し違う気もする。

 しかしながら、春は、僕だけではなく、誰しもが不安定な季節だと思う。春の自然は美しいが、春の日本社会は、美しいとは言い難い。自然と日本社会を混同しないよう注意せよ。

 閑話休題。3月に、山梨、千葉及び東京へ旅行した。約4年ぶりの東京は――某国際体育大会のせいかわからないが――どこもかしこも、自分の顔が映るんじゃないかぐらい清潔だった(特に新宿が清潔になっていた。多分バスタができたからだろう)。そして、やたらモノトーンの外装・内装の建物が増えたように思う。

 山梨の石和温泉で見た桜は美しかった。一方で、東京で見た桜は美しくなかった。どの桜にも、まるで生ゴミに集る蠅のように、人が群れているからである。やはり桜は、人が少ない閑静な処か、原生の山桜を見るに限る。