知識人とメディアが過度な悲観論に傾く理由:読書感想

 インテリ文化は、本来こうした認知バイアス*1の修正に努めるべきものなのに、実は往々にして強化してしまう。

 (中略)インテリ文化はネガティビティ・バイアスに対処することもできていない。対処するどころか、ネガティビティバイアスに便乗して得をしている。つまり誰もが警戒心を研ぎ澄ましているおかげで、実はこんな悪いことがあるんですよと眉をひそめて促すインテリのために、新たな市場が生まれている始末だ。

 (中略)ジャーナリスト*2は悪い面を強調することが自分たちの職務だと、つまり番犬となり、悪事を暴き、告発し、鈍い人々の目を覚まさせることにつながるのだと信じている。そして知識人は、未解決の問題を掘り起こし、これこそが社会が病んでいる証拠だと主張すれば、すぐに耳を傾けてもらえると知っている。

 受け手の側も同じである。金融ライターのモーガン・ハウゼルによれば、人々は往々にして、「悲観論は自分たちを助けようとするもの」、楽観論は自分たちに何かを売りつけようとするもの」と感じているという。*3(中略)

 もちろん悲観主義にもいい面はある。同情の輪が広がることで、今より無情だった時代には誰もが見逃していた悪にも、人々が関心を寄せるようになる。今日、私達はシリア内戦を人道的悲劇だと考えているが、それより多くの死者や強制移住者を出した半世紀ほどの前の戦争や紛争――中国の国内内戦、印パ分離独立に伴う大混乱、朝鮮戦争など――を人道的悲劇と認識していた人は少ない。私が子供のころには、いじめは少年期につきものの普通のことと思われていて、いつの日かアメリカ合衆国大統領がいじめについてスピーチする日が来るとは(2011年のオバマ大統領のスピーチ)夢にも思わなかった。どうやら私達は、人道に配慮するようになればなるほど、身の回りの害悪を見たときに自分たちの水準が上がったのではなく、世界の水準が下がったと思い込んでしまうようだ。

(S・ピンカー(橘明美、坂田雪子訳)(2019)『21世紀の啓蒙(上)』草思社、102-105頁より引用)

  この社会には楽観的な人と悲観的な人がいる。勿論、こういった二分法が間違っていることを僕は分かっているし、人間とはもっと複雑(complex)な生き物である。とはいえ、悲観論ばかりを言うような教養俗物や、ネガティブな感情、特に怒りを撒き散らすような人間そして情報とは距離をとったほうが賢いと思う。というのも、定量的にも歴史上でも、世界は進歩しているからである(詳しくは上記の本を読まれたい)。暑ければ陰で暑さを避けるように、それらを避けるべきである。彼らが過去に唱えた悲観論がどれだけ現実となったか、数えてみるとよい。

 ところで、何らかの不確実性や失敗を避けるために法律や道徳律等の規則を作るのは結構だが、それらは裏を返せば抑圧である。抑圧があれば人間というのは反抗するのが常、というのは歴史が証明してきたのではなかろうか。バネは抑えるほど大きく跳ねるのだ。不確実性を受け入れれば即ち確実性を得、失敗に寛容になれば即ち成功を得るのである。

 悲観論からは無制限に規則がうまれてしまう。すると、段々と抑圧が強い社会になってしまう。物事の悪い面ばかりみて、良い面を見ないのは如何かと、僕は思慮している。

 

*1:ネガティビティ・バイアスのこと;「悪は善より強い」という標語に要約される。人は得を期待する以上に損を恐れ、幸運を楽しむ以上に不運を嘆き、称賛に励まされる以上に批判に傷つく、という心理学上の知見のこと

*2:新聞記者(ニュース記者)のこと

*3:M. Housel, "Why Does Pessimism Sound So Smart? " Motley Fool, Jan. 21, 2016.