無執着な生と情熱的な生

多くの西洋の思想家たちは、仏陀と同様に、病気、老化、避けられない死といった苦痛について考え、彼とはまったく異なる結論に達した――人や目標や快楽に対する情熱的な執着を通して、人生は充実したものになるに違いない。 私*1は、かつて、哲学者のロバート・ソロモンの講演を聴いたことがある。彼は無執着の哲学は人間の本性とはかけ離れたものであるとして真っ向から反対した。数多くのギリシアやローマの哲学者によって唱えられた知性的省察と情動的無関心(冷淡)の生活や、仏陀が説いた平穏な無執着な生活は、情熱を避けるよう設計された生活であるが、情熱のない生活は人生ではない。そう、執着は苦痛をもたらすが、大きな喜びをもたらすのであり、哲学者たちが避けようとしていたその変化の中にこそ価値がある。

(中略)私は、幸福仮説に陰陽論を取り入れて拡張することを提案したい。幸福は心の内から訪れ、さらに、幸福は心の外からも訪れる。*2

 

J・ハイト(藤澤隆史・藤澤玲子訳)『しあわせ仮説』新曜社、158-159頁

 人間にとって幸福とはこの2種であると僕も思っている。僕はどちらかといえば仏陀老子そしてストア哲学側であり、陰陽論でいったら陰の人間だろう。D・ソローの『森の生活』にひどく共感しもする。

10代の頃の僕は情熱的であった。生徒会長を務め、パンク・ロックヘヴィ・メタルを好み、女の子数人かに――下手で野暮ではあったが――好意を伝えてはフラれていた。しかし20代になったぐらいからだろうか;加齢のせいか書物の読みすぎのせいかは分からないが、仏教が目指すような生活に心が惹かれていった。断食をしたり、自慰をやめてみたり、アパートのWi-Fiの契約をしなかったりした。どれも継続はしなかったが、自らの物質への執着を省みることができるようになった。その一方で、運命的に、僕と似たような思想を持つ友と出会うことができた。「類は友を呼ぶ」は本当みたいである。彼は唯一無二の友である。

以上の断片的な自分史を見てみても、僕にとって幸福とはまるで陰陽論のようだと思う。僕は陰の人間だと初めに述べたが、陽の出来事が僕にとってクリティカルな影響を与えていることは相違ない。内観と外観・受容と努力・静謐と情熱が、互いがまるで自己の半身を求めかるかのように支え合っている。これらは社会構築主義な議論ではない。本性主義なのだ。古代ギリシャの神殿に「汝自身を知れ」と刻まれていたように、各々が各々の本性を知るべきなのである。

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*1:著者であるハイト氏のこと

*2:下線は和訳原著では傍点である。英語の原著だとイタリックだと思われる