「快楽のトレッドミル」について:読書感想

(略)運動用のトレッドミルの上では、好きなだけスピードを上げることができるが、同じ場所にとどまったままである。人生においても、好きなだけ一生懸命働き、欲しいだけ富を蓄え、果樹を植え、愛人を囲うことができるが[著者は先述で、『旧約聖書』の「コヘレトの言葉」においてエルサレムの王が欲しい事物を全てを手にした結果、虚無主義に陥る例を出している]、少しも先に行くことができない。なぜなら自分の「自然ないつもの平穏状態」[著者は先述にて人の幸福感受性は生得で5割決定している、という心理学の研究結果をここでは踏まえている]を変えることができないので、蓄えた富は単に期待値を上げるだけで、以前の状態に比べていっそう幸せだということにはならないからである。しかしながら、私たちはその努力が無駄であることに気づくことなく、それが人生ゲームで勝つために役立っている限り、努力し続ける。常に自分が持つ以上のものを欲し続けて、回し車の上のハムスターのように、走って走って走り続けるのである。

(J・ハイト(藤澤隆史他訳)(2011)『しあわせ仮説』新曜社、131頁)

 トレッドミルとは和製英語におけるランニング・マシンのことだ。ハイトが用いたこの比喩は秀逸である。我々はトレッドミルを日々回し続けるが、一歩も前進していない。が、トレッドミルの走行距離に「何キロ」と表示されるのと同様に、銀行口座残高(その数字はコンピュータによるデータに過ぎない!)、YouTubeの再生回数、そしてツイッターのフォロワー数等で何かしら「前進」していると思い込むのである。しかしながら、その場で足踏みしているだけで、一歩も前進していない。

 ハイトはこの比喩で「適応の原理」という心理学上の知見を説明している; 人間の脳神経細胞は新しいこと、換言すれば変化をを求め、安定を求めない。さらに困ったことに、新しいことにも馴れて(馴化)しまい、馴化に成功したことにはさらに目標を高め、馴化に失敗したことには目標を低くしたり、目標を変えたり、再調整したりするらしい。さらに適応できたか否かの基準は遺伝子によって決定しているみたいだ。したがって馴化するか否かは遺伝子のプログラムによりけりらしい。これを踏まえると人間は先験的なことがその人を決定づけるように思える。昨今では構築主義的に人間を分析することが流行っているよう見えるが(哲学史上では1980年代で一応終了している)、こうした本性主義の観点から人間を観てみてもおもしろいのではなかろうか。

 では何を前進と捉えるか、と問われると難しいが… この議論を踏まえると複雑になるので割愛する。

 

 なぜこの部分を抜粋したかというと、僕は日常において社会の労働、娯楽等々を見る度に「これには何の意味があるのだろうか」と感じることが多いからである。大抵の娯楽にはお金が支払われ、そこには安価で働いている人たちがいるからだ。娯楽奴隷の為に奴隷的な労働を強いられているように僕には見えるのだ。虚無主義だと言わればそれまでだ。だが、虚無主義よりか社会批判の方が強い。無意味な行為において苦しむ人間がいるならば、無い方がいいじゃないか、と常々思うのである。そう思うのは僕があまり欲が無いからかもしれない。おそらく大抵の人間は無自覚に欲に付き合わなければならないし、僕だって例外ではない。こういった人間本性は仏教やキリスト教ストア哲学など昔々から説かれてきたが、現代において判明したこの心理学的知見も僕の蒙を啓いてくれるのと同時に、人間昔から変わっていないなと思わせてくれる。