音楽について小試論

 スピッツの「チェリー」や「ロビンソン」や「魔法のコトバ」とかを歌いたい季節になった。スピッツには不思議なバイブスがある。バンプやラッドが苦手でも、スピッツが苦手な人に会ったことがない。人の車に乗せてもらったとき、流れている音楽の7割くらいはスピッツだと個人的には感じている。ある友人に、なぜスピッツなのかを尋ねると「ドライブの歩調(走調といったところか)に合っている」と答えた。はて、僕は車を運転しないので、よくわからなかった。が、ユーロビートや"F*ck Tha Police"をかけるよりは安全運転になるのは、間違いないだろう。

 衣服に季節感があるように、音楽にも季節感がある。夏にAll I want for Christmas is youを聴くのは、夏に全身黒の装いをするように季節感に欠ける。また、空間とも結びつく。1990-2000年代のJ-popを聴くと、松屋ブックオフを思い出し(J-popがよく流れている)、それに連なって大学時代の謙虚な心を思い出すことができる(特に経済的な意味で)。「百千万」のZORNのバース「いつかラスベガスでBirthday Bash/でもいくら稼いだってカップ麺買う」にあるように。

 

慎みについて

 運送業者は物を運び、詩人[ラッパー]は韻を踏み、賢者は自己をととのえる*1。賢い人でありたいなら、ブッダもいうように、自己をととのえるべきだと思う。僕は愚か者なので、自己をととのえんと、坐禅、お酒を飲まない(人といるとき、かつ相手が飲酒する場合は飲む)、そしてスマホのスクリーンタイムを減らすよう最近は行いを修めんとしている。2年くらい前に目標にした「怒らない(怒りを表出しない)」は坐禅神経科学、及びストア哲学の学びもあってか、ひじょうにできるようになってきたと思う(俗にいう、及び横文字でいう「アンガー・マネジメント」といったところだろう)。お酒をやめることは簡単にでき、あとはスクリーンタイム減少を目指す。実際には何をしているかというと、職場にスマホを持っていかないとか、外出時にもっていかない、である。腕時計とクレジットカードで大抵は事足りることが判ったのは、よい気づきであった。

 心理学の古典的な人間の分類でタイプA、B、Cというのがある(かなり大雑把な分類ではあると個人的には思う)。僕はタイプBの人間であると人からも云われるし、そして自分でも評価している。なので、心がけ次第で簡単に出来てしまっているのかもしれない。

 スクリーンタイム減少もおそらく容易だろう。というのも、僕はインターネットにうんざりしてきたので、それほどインターネットに執着してないからである。かといって、音楽を聴いたり、金融手続きをしたり、Our World in Data*2SDGs進捗状況*3を眺めたりと、用途は多様である。インターネットも怒りやアルコール飲料と同じで、うまく付き合えるようになれるかが肝心である。この3つがもし職場の同僚でいたら(おそらく可愛い女性だけど地雷;femme fataleだろう)事務的な会話以外はしないようにし、視界に入れず、見てしまった場合は話しかけず、話しかけてしまった場合には慎みをもつよう、肝に命じるだろう*4

*1:中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』(岩波書店)21頁、第80節のサンプリング

*2:https://ourworldindata.org/

*3:https://sdg-tracker.org/

*4:中村元訳『ブッダ最後の旅』(岩波書店)131頁、第5章第9節

アップルのメジャーアップデートについて

 僕が持っているMacbook AiriPhoneが今秋からメジャーアップデートより外されるらしい。何がまずいのか一応いうと、OSをアップデートしないとコンピュータの脆弱性が放置されてしまう。喩えるなら、妙齢の女性が一人で海外旅行に行くとき、その父親が感じるであろう気持ちを、僕は抱えなくてはならなくなる。HTTPSでないウェブサイトにアクセスしないようにしてるし、治安の悪いサイトには行かず、セキュリティ関連はコンピュータ素人なりに整えてはいる。そうではあるものの、OSをアップデートして、かわいい子には旅なんかさせず、愛娘を日本に滞在させたいのが親心である。

 計算してみると、アップル製品は発売から5-6年でメジャーアップデートから除外されるようである。MacbookiPhoneを5年持つとすると、約月3千円をアップルに支払うことになる。「無料のランチは決してない」とはいうものの、どうも腹に落ちない。道路のように無料で使えればいいのに、と思ってしまう。道路のようなものなのだから。

 予算はあるが、少し考える。いっそのこと、アンドロイドとWindowsに変えてしまおうか。ガジェットに詳しい友人と会う予定があるので、彼と話してから決めようと思う。

 もう一つ、腹に落ちないのが、今持っているMacBookiPhoneはどちらとも問題なく動くのに、買い換えるか否かという思案をさせられていることである。持続可能だよ?  SDGsじゃなかったの? と皮肉もいいたくなる。これはIT化し(してしまった?)、進歩した(僕は間違いなく進歩だと思う)、及び進歩している現代社会においては仕方がない、不可避なことではある。これは成長痛のようなものかもしれない。

2022年8月

 生きることは、心がつくる物語である。こうやって書くことは、僕の人生を具体的に物語化することだと思う。変わらないことがあるとすれば、変わることが変わらないことだ。両手を広げて受け入れる変化もあり、そうでないのもある。他人と僕の思想や生活等、万物は流転していく。変わらないことは歯磨きの習慣ぐらいだ。だからこそ、こうやって書き留めることは、人生を意味付けるのに役立つ。カメラで写真を撮るかのように。

 最近は夏季のSADぽくややなっていた。これは自己診断であるけど。冬季SADの療法と逆のことをすると良いらしい、とググってみてわかったので、した結果、見事に良くなった。なんだか陰陽の均衡をとるようで、人体の神秘を感じた。

 お酒をやめた。1ヶ月くらい経った。お酒を飲む引き金がわかれば、簡単だった。僕の場合「退屈」みたいである。

 S・ピンカー『人はどこまで合理的か (Rationality)』を読み進める。いずれ批評を書きたいな、と思う。が、理解が追いつかないところもあるし、個人的には面白みに欠けるな、と思う箇所もある。理性とは面白みが出るまで、複雑なことを理解せんとする心である、と僕なりに、勝手に、定義した。理性とは、理由の理であり、理想の理であり、理解の理である。一方で、モームOf Human Bondageの新訳がでており、邦題も『人間のしがらみ』と適切になっていると思う。この小説でモームはbondageつまり「絆」と「しがらみ」を、通俗的に、痛快に書ききっている。何度読んでも、面白い、なかなか巡り会えない小説である。ところで、僕の人生を振り返ってみると、「絆」と「しがらみ」両方あったが、最近は「しがらみ」系の出来事があり、気が滅入っていた。しかし、数日経つと、どうでもよくなり、「なぜあんなにアドレナリン・ノルアドレナリンがでてたんだろう?」と不思議に思う。これは僕の長所かもしれない。

 

最高善とは何か

 最高善とは何かを近頃考える。アリストテレス曰わく、のことではなく、自己にとっての、及び他者にとっての最高善である。換言すれば、今日、人間は究極的に何を目的としているか、ということである。結論をいうと「幸福と意味」である。「幸福(意味)」といってもいいかもしれない。我々が日々行い動くのは、幸福と意味を目指さんとする為である。読者諸賢の日々の活動を振り返り、最終的に何を目指しているか思索されたい。例えば、歯を磨くのも、食事も、仕事も、勉強も、誰かを好きになることも、身を休めることも、最終的には幸福と意味に辿り着かないだろうか。大工が家の完成を目指すように、人間は幸福と意味に向かっている。

 以上は、結局アリストテレスと同じような結論になった。流石は希代の先哲である。以上のことが真だとすると、次の問いが出てくる。それは「人間は幸福と意味という目的ではなく、それに至る手段が目的となってはいないか」ということである。例えば、勉強において、幸福になることが目的なのに、勉強自体が目的となっている場合が見受けられる。勉強意欲が出ない人というのは、それが社会あるいは自己にとって、どう繋がり、どう幸福に繋がるのかというのが判然としない為である。

 一方で幸福と意味といっても多様であり、質の高低もあるのは相違ない。ただ、抽象的にいえば、幸福と意味が人間にとって最高善であると、暫定的に僕は考えている。

ノート#1

 ある側面から見て正しいことは、別の側面からは誤っているかもしれない。ある側面からみて賢いことは、別の側面からすれば、愚かなことかもしれない。僕を含め、人々がこの相対の世界をさ迷うのも、無理もないことである。認知心理学でいわれる、立方体の図を見るとき一方の側面しか見られないみたいに、それがデフォルトなのである。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」というように、中庸であるのが良いし、人徳の尤もたることである。しかしながら、ではなぜ人は極端になってしまうのだろう? ヒュームがいうように「理性は情念の奴隷である」からだろうか(現代の心理学の知見からすれば「理性は情念の弁護士である」がより適当)。実際そうなのだろう。僕が人間を観察する限りでは、中庸の徳を備えた人というのは、その人の気質がそうであるか、或いは中庸であらんとトレーニングをした人物である。正義心とは、僕にとって、自明なことであり、謎でもある。まだまだ勉強不足だなあと思う、今日此頃…

 

 閑話休題。僕は秋冬の洋服より、春夏の洋服の方が好きである。ブロードのシャツ、薄手のステン襟コート、どれも軽々としているからである。ブロードのシャツに敢えてシワをつけて着るのが好きである。「洗いざらし」というのだろうか。

 洋服、つまり西洋の服が今日の日本では主流である。機能的だし、動き易いし、ケアも容易だ。しかし、春夏くらいは1週間ぐらい皆揃って着物を着る時期があってもいいのではないかと思う。和服の歴史を学ぶと、我々が今日、洋服を着るときでも、和服の発想できていることがあることに気づく(肌着、家と外で服を分ける習慣とか)。我々は、日常において、歴史を身に纏っている。

後出しジャンケン(韻文詩)

みんな大好き後出しジャンケン

俺に言わせりゃアホらしジャンケン

ツイッターの烏合の衆、地震学者、記者どもジャンケンポン

あとから出せば負けない、腹の中はいばってんの

誰が未来を予測できた?

こいつらが本当の世界の敵だ

みんな大好き後出しジャンケン

少なくとも俺は飽きたしやんねえ