日本で3人に1人は不労所得を得ている、かもしれない

   気になったので調べ、計算してみた。いい暇つぶしになった。計算が粗かったり、間違えてる可能性があるので、そこは読者諸賢に留意されたい。 

老齢年金受給者数(実数): 約4040万人*1

障害年金受給者数(実数): 約270万人*2*3

生活保護受給世帯数: 約163万世帯*4

資本家(株、債券及び/又は不動産等々):

1000人に1人いると仮定すれば、約12万人

重複してるのが約3万人だと仮定して


4482 = 4040 + 270 + 163 + 12 - 3

4482万 / 1億 2500万 = 0.35856

日本人の約35%は不労所得を得ている

→3人に1人以上

 

韻文詩#11

しがみつくなよ、過去の栄光

食えねえから捨てろ、ライク狩野英孝

「見える」のとこでは意識高い

「である」のとこでは意地汚い

「である」の処でイキリなさい  

どんなに「見える」を取り繕おうと、意味がない

要するに猛吹雪を毛布抜きで越えてく、それが人徳

でなきゃあなた、いっぺん死んどく?

休むように仕事し、仕事するように休む

 「休むように仕事し、仕事するように休む」というのが、僕の性に合致していると気づいてきた。休みも仕事もそれせんとすると、上手く出来なくなる。実際、僕の周囲の人間を観察していると、仕事を良くする人ほど、休むように仕事をする。チクセントミハイの『フロー』を読み影響されたのか知らん。何事も没入し、かつ心が穏やかであるのが良い。フローを生み出さんと朝、歯磨きするところから意識してみると、朝のコーヒーが美味しくなり、昼のコーヒーもうまくなり、晩のビールは格別で、夜は良く眠ることができる。換言すれば日々の小さくも確かな幸せ(小確幸)が増えるのである。学生の時分みたいに、興奮することは減ったが、小確幸は増え、人により寛容になり、不確実性の当然さを腹で理解した。

 初めてのこと、未知のことは減る。単純な文化・事物への関心は失せ、より複雑な文化・事物の存在理由が判るようになった。どちらにも存在理由はある。しかし、良い生を送るのは、後者に従事する方だろう。ベートベンの『第9』で歌われるシラー作の詩のように「快楽は虫けらのような弱い人間にも与えられ/智天使ケルビムは神の御前に立つ」のである。快楽 (wollust) ではなく喜び (freude) が我々には必要である。欲の限りを尽くす人というのは、単純な文化・事物に向かいがちであるが、欲の限りには、読んでの通り「限り」があるので、いずれ退屈あるいは虚無に苦しむことになる。老子もこう述べる「弱めんとするならば、しばらく強めてやれ」と。ゆえに僕が思うのは、良い社会とは、欲を抑圧する世ではなく、できるだけ欲を解放してやる世であろう。勿論、そこにパターナリズムは必要であるが(個人的には命、健康そして自由を害することには干渉してもいいと思うが、思考の余地はまだある)。

人間は、時として、充されるか、充されないか、わからない欲望のために、一生を捧げてしまう。その愚を晒[わら]う者は、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない。

 

芥川龍之介芋粥』より

 

 

 

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猪苗代湖・会津若松・景観

 夏は――いつも休んでいるような性格の僕がいうのもなんだが――よく休めたように思う。猪苗代湖という処に行き、遊泳し、車中泊をした。車中泊は初めてだった。僕の場合、車中だとあまり眠れないことがわかった。眠れないので夜の湖をずっと眺めていた。夜の湖は、まるで竜でも出るんじゃないかというくらい幻想的であった。

 近くの会津若松にも寄った。行く途中、通った福島市の景観が、原色多めだったせいか、会津の上品な街並みが際立っていた(会津は小京都みたいな街である)。そこの人たちもモノトーンか紺等の落ち着いた色の服を着ていて、まるで景観に人が合わせているかのようであった。友人は「俺が大学であった福島と岩手出身のやつらは原色の服ばかり着てたよ。でも会津出身のN君はジャケットをいつも着ていたね」と語った。原色は悪である。ちなみにそのとき車内では、彼が近頃気に入っているNiziUがかかっていた。

 街の景観は人の美的感性に影響するのかもしれない。否、人の美的感性に街が合わせるのか? 日本の街並みについて個人的に思うことは、夜間照明を白色にするのと、電柱を建てるのを、なるべくやめて欲しい処なのだが。

2021年6月

 体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。

 

(『新約聖書』マタイによる福音書6:22-23、新共同訳)

 

  近頃はいい意味で好奇心が淡白になってきた。しかし僕から好奇心を除いたら、一体何が残るのだろうか。というより、これまでの僕が好奇心を持ちすぎていたのかもしれない。これは瞑想の効用かもしれないが、何事に関してもニュートラルになった。

 知ることは楽しい。自己を統制することもまた楽しい。急いで、多くやれば良いというものではない。ゆっくり、少なく、複雑なようで簡潔、簡潔なようで複雑なのが、長続きするし、質が高くなる。経済学でいう限界効用逓減の法則や、心理学でいう処の快楽のトレッドミルみたいなものである。以上がこの頃のサティである。