休むように仕事し、仕事するように休む

 「休むように仕事し、仕事するように休む」というのが、僕の性に合致していると気づいてきた。休みも仕事もそれせんとすると、上手く出来なくなる。実際、僕の周囲の人間を観察していると、仕事を良くする人ほど、休むように仕事をする。チクセントミハイの『フロー』を読み影響されたのか知らん。何事も没入し、かつ心が穏やかであるのが良い。フローを生み出さんと朝、歯磨きするところから意識してみると、朝のコーヒーが美味しくなり、昼のコーヒーもうまくなり、晩のビールは格別で、夜は良く眠ることができる。換言すれば日々の小さくも確かな幸せ(小確幸)が増えるのである。学生の時分みたいに、興奮することは減ったが、小確幸は増え、人により寛容になり、不確実性の当然さを腹で理解した。

 初めてのこと、未知のことは減る。単純な文化・事物への関心は失せ、より複雑な文化・事物の存在理由が判るようになった。どちらにも存在理由はある。しかし、良い生を送るのは、後者に従事する方だろう。ベートベンの『第9』で歌われるシラー作の詩のように「快楽は虫けらのような弱い人間にも与えられ/智天使ケルビムは神の御前に立つ」のである。快楽 (wollust) ではなく喜び (freude) が我々には必要である。欲の限りを尽くす人というのは、単純な文化・事物に向かいがちであるが、欲の限りには、読んでの通り「限り」があるので、いずれ退屈あるいは虚無に苦しむことになる。老子もこう述べる「弱めんとするならば、しばらく強めてやれ」と。ゆえに僕が思うのは、良い社会とは、欲を抑圧する世ではなく、できるだけ欲を解放してやる世であろう。勿論、そこにパターナリズムは必要であるが(個人的には命、健康そして自由を害することには干渉してもいいと思うが、思考の余地はまだある)。

人間は、時として、充されるか、充されないか、わからない欲望のために、一生を捧げてしまう。その愚を晒[わら]う者は、畢竟、人生に対する路傍の人に過ぎない。

 

芥川龍之介芋粥』より

 

 

 

youtu.be