運動について

 涼しくなるとチョコレートが食べたくなる。秋の乾いた、スピッツの「正夢」を歌いたいような、冷涼な空気が私をチョコレートへ導く。決まってDARSかアルフォートに手を出す。ついでにポテトチップスも買う。勿論コンソメ味である。それを水出しのルイボス茶と食べる。10代後半の時分からこの癖がある。小さいが確かな幸せである。こんなことをしても体重が増えないのは、恵まれた体質もあるだろうが、運動の習慣が大きいと思う。高校の頃はバドミントン部に交じってプレイしたり、バスケ部に交じってドリブルやシュートをしたり、週末は軟式野球部で試合に出たりした。こう書くと多忙に見えるがそうではなく、全て遊びのようなものである(私は特殊な高校時代を送っていた)。この時分はラーメンや牛丼を大盛りにするのは当たり前で、コンビニで買える果物風味の水を放課後にがぶ飲みするなど、まさに鯨飲馬食――といっても十代の男性はこれくらい朝飯前だが――の限りを尽くしていた。そんなことをしても牛のようにならなかったのは、先述した体を動かしていたからだろう(体重変化を加齢のせいにしたがる風潮があると思っているが、私は学生時代程運動していないからだと思う。この思想はマスクリン過ぎるだろうか)。この運動習慣が歯磨きや風呂のように身についている。高校時代のような機会はないが、それでも1週間に6日は歩かないと、何日も風呂に入っていなかったような、そんな心持になる。私にとって散歩及び運動はカントの言うところの不完全義務ではなく、完全義務であり、諸人にとっても、健康を欲するなら、不完全義務ではなく、完全義務といっても相違ないだろう。

個人的ここ5年でわかったこと

1 中庸が良い、極端は避けよということ。余暇と仕事、義務と自由の関係もそうだが、何事も極端は避けよ。5:5ではなく6:4や7:3だったりすることもある。
2 苦手な人間と情報からは距離をとれ。人間関係は生を形作る大きな要素である。自分が思っている以上に付き合ってる人から影響を受ける。良い(徳がある、怒りを表出しないとか)人と付き合い、良くない人からは離れよ。情報もまた然り。また、良い人間関係を作る努力を惜しむな。これは最優先事項でもある。
3 怒らない、怒りを表出しないようにせよ。怒ってもいいことは決してない。
4 人は未来の自分の感情を予測することが非常に苦手である。こうしたら仕合せだろうとか、でないとかは外れていることが多い。特に未経験のことはそうである。
5 困難は人をしなやかに、柔軟にし、強くする。筋骨や心肺と一緒である
6 酒は飲むな。いいことは決してない。
7 定量的に考えよ。世の中は進歩しているとわかることが多い。自分の生活も定量化すると、客観的に観察することができ、自分の感情を信じてはならないことが改めて判る。
8 演繹で考えるより帰納で考えた方が実生活で役に立ち、明確である。科学的な思考は生活でも実用的である。試行、錯誤、改善そして試行のフローは人生を良くする。批判的合理主義は人生にも役立つ。
9 散歩を欠かさないこと
10 少食は健康に良い
11 聞く耳を持たない他人をどうにかすることは非常に難しいし、苦労する。自分を変える方が簡単である。他人からみた自分も同様である(他人は自分をコントロールできない)。
12 「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」は真理である。埋没費用、コンコルドの誤謬を思い出し、直ちに過ちは改めよ。過ちを改めないことが本当の過ちである。
13 独善的になるなかれ。道徳は人を結びつけると同時に盲目にする。常に物事の陰と陽を見よ。
14 世界や人生は不確実性でできている。不確実なことが確実なことである。
15 自らの幸福の閾値を下げた方が、生き易くなる。足るを知る者は常に足る。
16 交通安全は警察の仕事である。いちいち目くじらを立てても、それによって交通事故とその未遂は減らない。ちなみに、2022年は統計史上(1948年から)最も10万人あたりの交通事故による死者数が少なかった。*1*2

17  ニュースは避けよう。マスコミは人間のネガティビティ・バイアスを利用して影響力を持ちたい、金儲けをしたい連中の集まりだからである。彼らは長期的な視点は持たず、短期的な視点で語りがちだ。そして、見なくても、困ることはない。

18  完了は完璧よりも良い (Done is better than perfect.)。あとで修正、改良すればよい。これは8と12にも関連する。

19 常に自分の感情は信じない方がいい

これらは誤っている可能性もあることをご留意されたい。

炭酸水を飲み、カレーを食べ、鯨の鳴き声を聞く

 炭酸水を飲み、カレーを食べてばかりいる。冷えた炭酸水を飲むと、ビールを飲まずしてビールを飲んだ気になるのでいい。お酒を飲まなくなってから、体調が良い。疲れにくく、疲れがすぐ取れる。世界が私を祝福してくれているような、穏やかな気持ちでいられる。一方で偶に友人と飲むビールも、素晴らしい。松屋のカレーばかり食べている。花は桜木、カレーは松屋、とっても差し支えないだろう。鯨の鳴き声をよく聴いている。鯨は文学的な生物だと思う。私に筆力があれば、鯨を何かのテーマやメタファーにした小説を書いているだろうに。

 「小人閑居して不善を為す」という。そのアフォリズムの意味が分かってきた。前々から判ってはいたが、中庸であれ、と解釈できる。休みすぎてもいけないし、励み過ぎてもいけない。私は私が思っているほど自らをおさめていない。心理学では、人は自分の未来の感情を予測することが非常に苦手だ、とわかっている。労働をせず、不労所得で生き、有り余る時間があれば、本当に仕合せだろうか。私は不労所得で働かずとも生きていけても、何かしら社会と関わるために、かつ社会に役立つために、何かしら働くだろうと思う。筋骨は使わないと衰えるように、私の精神も社会と関わることをしないと衰えるだろう*1

*1:もちろんこれは、労基法違反の仕事及び劣悪な労働環境を肯定しているわけでは決してない。そして「社会人」という日本特有の概念を肯定しているわけではない

なぜ世の人々は退屈そうじゃないのか

 退屈を感じている。仕事にしても、余暇にしてもだ。何にも悩んでいないのはある意味仕合せだが、退屈ではなく、刺激をどこかで求めているのだろう。酒、女、酒、女求め始めたら埒が開かない。生きていく上である程度の目標は刺激と生きがいを与えてくれる。目標の裏は、欲である。ある程度欲がないと、良く生き難いのかもしれない。頭では分かるのだが、私の心はなんだか保守的なようである。仕事にもいまいち探究心や好奇心がわかないし、学問にも以前と比べると弱まった。知らないことは多いが、知っていることも増えた。足るを知る者は常に足る。私は常に足るを知る才があるようである。よく世の人々は、退屈もせず、飽きもせず 、せっせとマスクをした畜群として(花粉症や風邪などの場合は除く。そもそもマスクの着脱などその人次第で、私が変えられることではない。服に何を着るかその人次第なように。ただ私は、マスクの例のような、附和雷同な、自ら招いた未成年状態の、無責任の体系の、畜群道徳がまかり通る日本社会を、杞憂する。これは他人に期待しすぎだろうか)、生きているものだと思う。私が勝手にそう思っているだけだろうか。何かが欲しい、名声を得たい、女を抱きたい、何処かへ旅したい等々、欲はあったほうが、そのために苦しむだろうが、生きがいや刺激を与えてくれるのだろうか。2022Spotifyで聴いていた曲がブラームスばかりである。なんだかそういう気分なのかなと思う。大学卒業後、したいこともなく、これからは余生だなと思っていたが、余生というには長い長い時が続きそうだ。

不安定な春

 僕は春は気持ちが不安定になりがちである。僕の意思とは関係なく、体の自動的なプロセスでそうなっているみたいだ。緊張感があったり、焦燥感があったりする。特に朝にそうなりがちだ。かといって、生活に支障をきたす程重症ではない。僕の生活といえば、変化はほぼないに等しい。一方で、周りは変化する。僕は、高校から大学の途中まで、レギュラーフィットのまっさらブルージーンズをいつも穿いていて、「レギュラーフィットのブルージーンズはダサいから、黒スキニーにした方が良い」と、飲み会で指摘されたことがある(そしてこれは当時のトレンドからすれば妥当な助言である)。しかし、今では、そのブルージーンズがトレンドである(そして、なんとレギュラーよりももっとゆるいものが着られている)。男も女も、2000年代のIce BahnやNitro Microphone Undergroundの様な恰好をしている。そのくらい服も変化し、季節も変わっていく。否、それよりも速く変化している。僕が住んでいる地域は、季節の変化が明瞭な気候であり、かつ夏から秋のように徐々に変化するのではなく、急変する。日が長くなる。それら諸々が自律神経を乱しているのかもしれない。服の変化は自律神経を乱さないが、季節の変化は乱す。僕は能動的に変化するほうであるが、受動的な変化には弱いのだろうと思う。

 こうなり始めたのは、大学生の頃からかな、と思う。小中高生の時分は、新しい教科書が配られ、それに好奇心が向き(そうじゃない人もいるだろうが、僕はそういう類の生徒だった)、人間関係も鈍感で大雑把だったし、それで上手くいったし、それでやっていけるお年頃だったのだろう。大学の仕組みと似た高校に通っていたので、授業がある程度主体的に選べ、課題もそれほど多くなかった。そして、大学になり、周りの人が増え、その連中の傲慢さに驚き(日本の大抵の高校が抑圧的だから、それから解放され、こうなっているのかも、と憐れみもしたが)、シラバスの複雑さに困惑した。それらのネガティブな経験が今でも尾を引いているのか? 少し違う気もする。

 しかしながら、春は、僕だけではなく、誰しもが不安定な季節だと思う。春の自然は美しいが、春の日本社会は、美しいとは言い難い。自然と日本社会を混同しないよう注意せよ。

 閑話休題。3月に、山梨、千葉及び東京へ旅行した。約4年ぶりの東京は――某国際体育大会のせいかわからないが――どこもかしこも、自分の顔が映るんじゃないかぐらい清潔だった(特に新宿が清潔になっていた。多分バスタができたからだろう)。そして、やたらモノトーンの外装・内装の建物が増えたように思う。

 山梨の石和温泉で見た桜は美しかった。一方で、東京で見た桜は美しくなかった。どの桜にも、まるで生ゴミに集る蠅のように、人が群れているからである。やはり桜は、人が少ない閑静な処か、原生の山桜を見るに限る。

理性についての小試論:『人はどこまで合理的か』批評

 言語学者ノーム・チョムスキーは、人間の言語の本質は「再帰性」にあると考えた。再帰性とは文章が入れ子構造になりうることをいう。わたしたちは「犬」について話せるのはもちろん、「母の友人の配偶者の伯母の隣人の犬」について話すこともできる。「彼女はそれを知っている」と指摘するだけではなく、「彼女がそれを知っていることを、彼は知っている」「彼女がそれを知っていることを彼が知っていると、彼女は知っている」といったように際限なく広げていくことができる。このような再帰的な構造は単なる強調の手段ではない。わたしたちが句のなかに句を入れ込んで話す能力を発達させたのは、思考のなかに思考を入れ込んで考える能力をもっていたからにほかならない。

 そしてこれが理性の力である。理性は理性について推論することができるのだから。何かがめちゃくちゃに見えるときでも、わたしたちはそこに何かの秩序を探すことができる。未来の自分が非合理な行動をとるかもしれないときでも、今の自分が賢く立ち回り、先手を打つことができる。合理的な議論が誤謬や詭弁に陥ったときには、別の合理的な議論でそれを指摘し、正すことができる。そして今、あなたが同意しない――この議論に欠陥があると思う――なら、それもまた理性があなたにそうさせているのだ。

(S・ピンカー(橘明美訳)(2022)『人はどこまで合理的か(上)』草思社、122-123頁より引用)

 僕は理性については――タブラ・ラサは批判するが――ヒューム主義的な立場を取ることが多い。カーネマンの『ファスト&スロー』及びハイトのThe Righteous Mind(邦題『社会はなぜ左と右にわかれるのか』)に書かれていることも、ヒューム主義的である。人は自動的な思考のプロセスがあり、バイアスが幾多も存在し、「である」よりも「見える」に重きを置いてしまうことがある。育ちや文化だけではなく、生まれ持った神経科学的要因が人を決めてしまう。だからこそ、啓蒙が我々には必要不可欠であり、己の行いを修めることが、人によっては、必要だと、考えている。カントの哲学は、まるでペガサスのようである。存在せず、知覚できず、観察不可能なことについて語っているのだが、観念連合によって、つまり馬と白鳥が存在し、それを複合することによって、その哲学があるように思えてしまうだろう。ペガサスは美しいので、魅了されるひとも多いが、観察できない。僕は馬と白鳥の段階で、哲学を形成するのが、合理的だと考えている。それともカントは制度的なことを言ったのだろうか。まだまだ僕はカントについてよくわかっていない。

 理性とは再帰的であり、換言すれば入れ子構造をしており、マトリョーシカであり、脚注である。理性についてヒューム主義的に考えることも、また理性の為す技である。理性について再帰的に考え続けた先に、何があるだろうと考えるが、それはマトリョーシカのようなものであり、ひょっとしたら、フラクタル構造なのかもしれない。ただ、僕が理性について信じていることがあるならば、理性は人間を進歩させることが可能である、ということである。僕は無自覚に啓蒙思想家なのかもしれない。

 

雪掻き

 雪は煩悩のように積もる。僕の住む地域は雪国で、冬の朝は雪掻きをするのが常である。雪掻きは骨が折れる作業だと思われがちだが、僕は――自分でも意外だが――雪掻きが好きである。冬の早朝ほど清らかなことがあるだろうか。冷たく、清らかな空気と、辺り一面雪の真白な景色と、未だ陽の昇らない町の閑静さが、僕の五官をchill outしてくれる。

 煩悩を払うように、髭を剃るように丁寧に、雪を払っていく。払い終わった頃には夜が明け、だんだんと明るくなってくる。僕が顕著に冬の季節を感じるときである。モームが髭剃りにも哲学があるといったように、雪掻きにも哲学があり、フローがあり、禅の境地があるのかもしれない。